努力できる奴が一番強い(スピンオフ風)

話は変わって。

『努力できる奴が一番強い』

 

この事に気づいたのは、中学生の時だったかな。

ピアノのコンクールに出た時です。

私は周囲から言われるがままに出場する事になったけれど、そこに自分の意志は一つもないため、いつも通り練習もせず、かなりふざけた状態での出場でした。

才能あるらしいし。つってね。

でもね、他の出場者は全然違ってた。

当たり前だけど。

熱意が違う。

弾き込んできたかどうかなんてそんなもん聴けばすぐわかるし、熱量は音に乗り、そういう人には覇気がある。

才能がある、ある、って散々言われても何の努力もしない人間と、

才能があろうがなかろうが、練習や努力をコツコツ積んできた人間と。

その差は一目瞭然でした。

その時はじめて、こんなに努力を積み上げてる人がいるのか、って。

あぁこの人らには全然勝てないな、って。

私にはピアノに懸ける熱がそこまで無いからな、って。

何の努力もしてないから挫折ってのとは違うけど、やっぱりそういう『努力を積み上げることが出来る人こそが勝つ』という事には、その時気づきました。

 

そっから100億年が経ちまして。

なんだろう。

美容師になったのがターニングポイントだと思う。

たかが美容師なのに。

私には凄く遠い道でした。

ある意味、誰でもなれる職業のはずなのに。

練習嫌い、コツコツ努力を積み上げることが出来ない私にとっては、苦行でしかない道。

私はオシャレ番長と呼ばれていたしセンスあるし(笑)

そういった意味でもお客さんに対しては説得力もあるから、スタイリストデビューさえすれば、一気に上に駆け上れる事は自分でも確信してたし、それは先輩らからも言われてた。

「正直、脅威だ」って言われたこともあったので。

でも全然その先輩の脅威にはならなかった。

私は同じ土俵に上がることができなかったので。

 

私には『練習を重ねる』という、たったそれだけのことがどうしても出来なかった。

 

思い描くビジョンが完全過ぎて、まだそこに至れていない現状との差に耐えられなかった。

なんで私がこんな所で躓いてるのか、という事が許せなくて。(まぁただの練習不足なんですけど。)

そしてまた更に、練習が嫌になる。

『出来ない今の自分』と向き合う事が嫌になって更に練習を避ける、逃げる。

アシスタントなのに練習せずに先輩より先に普通に帰る。

 

その間、全然オシャレでもなければセンスがあるわけでもない普通の人らが毎日コツコツ練習を積み上げて私をどんどん追い越していった。

多分、見下してたんだと思う。

周りの人たちのことを。

そんな人たちにどんどん追い越されていってね。

それが激しく屈辱だった。

 

お山の大将あがりのハリボテの私なんかよりも、彼らの方がずっと立派だった。

 

自分で「やりたい」と思って選んだ道なのに、練習や努力することができない。

これまでずっと、

何をやっても簡単に出来てたのに、

何をやっても適当に一番が取れてたのに。

切り方が理解できない。

パネルを引き出す角度の理由が理解できない。

どうしてそうしなきゃならないのかがわからない。

ルールの原理がわからない。

私こんな所でつっかかるような人間じゃないはずなのに。

どうして。 って。

 

出来ない自分 を人に見られるのが嫌だ。

出来ない自分 を自分で目の当たりにしなければならない事が耐えられない。

 

もう自分をコントロールできなくて。

自分が保てなくなった。

だから一度そっから離れたんです。

 

この時が、初めての挫折かな。

小さい頃から散々褒められてチヤホヤされて積み上がってしまった私の中にある何の役にも立たないそれ。

それに、私は負けたんです。

 

もっと他に自分に合うものがあるんじゃないか?って。

それを探そうと思って。

 

でも、何をするにしても、努力を積み重ねる必要があるって事に結局戻り着いて。

 

で、『最後のチャンスをください』と、シショーに頭下げて。

そっからも時間はかかったしかなり苦労したけど、でも今度は逃げなかった。

教える人のせいにして逃げたり店を変えてみたりしてたのを全部知ってる相手に対して『これで最後』と言っちゃったんでね。

それは、自分自身に対しても、です。

まぁ案の定、デビューできてからは好成績で。

でもそしたらなんかもう、自分が満足しちゃって。

『私にも努力を積み上げていく事ができるんだ!』

って思えた事が、そこでの最大の収穫だったと思います。

 

自分の中で、この業界(業種)はいつでも帰れる場所 という確信を得たので。

だから新しいことにチャレンジしてみたくなって、現在の占いの世界に至ってます。

 

話はだいぶ飛んだけど、あれです。

『なぜ、インベンションを弾いているか。』

実は、こういう話をしている最中です(笑)

 

まだ下手くそな状態のものを敢えて人の目に触れるような場所に載せるのは、

自分の中にまだ残っているであろう『格好つけたい自分』を壊したいからです。

小さい頃から散々褒められてチヤホヤされて積み上がってしまった私の中にあるそれが何の役にも立たない事を実感したいからです。

 

でもまぁどうだろう。

そんな情けない姿を晒して「私も上手じゃないけど好きな事頑張って表現してみよっかな」とか思う人が居たらいいな、とかも、どこかで思ってるかもしれない。

意外とサービス精神のある人間なようなので(笑)

でもまぁそこはちょっとわからないな。

 

でもね、人を妬んだり羨んだりしてても、何にもならない。

 

それが羨ましいなら、自分で取りに行くしかないよね。

自分にしかないそれを。

 

私も数か月前まで占星術やってる人たちに対して

ぐやじぃ・・・涙

と思ったりしてましたよ(笑)

勉強してみても全くパッパカパーだし。

あの人ら全員天才かよ!って。

 

でも、それらは才能とかじゃないって事がわかった。

あの人たちは別に天才なんじゃなく、努力する事をやめなかった人たちだって事がわかった。

だから私もまた挑戦しよう!って思って。

 

それにそれらが最初から完璧なわけじゃない。

最初は皆できないし下手くそで当然だから。

だからやっぱり、

周りの人を見て悔しく思う日があったとしても、

周りの人と比べてしまって自分なんてダメだ…と思う日があったとしても、

それでも諦めずに、コツコツ努力を積み上げていけば、

世界の一位になれないとしても、

自分の事は好きになれるよな、って。

私はそう思ってます。

 

 

あ、そうそう。最後に(笑)

そしてなぜインベンションとシンフォニアなのか。

子どもの頃、コンクール出た時、

モーツァルトソナタとインベンション8番とシンフォニア1番を弾かされたわけです。

先生が勝手に決めたやつ。

 

でもね、私は違うんだよ。

 

私は、

インベンション5番 と

シンフォニア3番 が好きなの(笑)

 

努力する という事ができるようになった今。

ちょっと、過去やり残したことを回収しに行こうかな、と。

今度は人が選んだ曲ではなく、自分でやりたいと思う曲で。

 

だからといって別に、今更コンクール目指すとかはないですけどね。

だから頑張って毎日練習した所で、何にもならないんですけどね。

 

すべては

『自分の心の為に』

ですかね◎

 

人に妬まれる人生からの逆襲

中学生に入っても色々ありました。

中学生に入ってからは謎に同学年や上級生の不良からは好かれてたので、あまりくだらない事で人から目をつけられる事はなかったけれど。(ちなみに私は全く不良ではない。)

 

中学1年生の時、音楽の先生から「3部合唱の曲を作ってみない?」と言われて、私は合唱曲を作りました。

歌詞は、募集かけたんですよね、同学年全体に。

それを文化祭で学年の演目として学年全員が歌わされて。

私はその歌練習の時間が凄くイヤだった。

皆べつにやりたくもない事なのに、朝練とかパート練習とかさせられてて。

多分、普通に既存する曲だったら何も思わなかったと思う。

「練習クソダルっ!」って言ってる人を見ても

「変な曲!」とか言ってる人を見ても。

そういう言葉が耳に入るたびに、なんだか自分が否定されているような気持ちになって悲しかったし、こんなもの作るんじゃなかった、って何回も思った。

 

でも2年生の夏休み前かな。

「中学生の作曲コンクールがあるから、去年のあの合唱曲を出してみない?」と。

また音楽の先生に言われて。

「みんな嫌がるんじゃないですか。」

って私が言ったら

「有志を募ろう!」

って。

「そんなの誰も集まりませんよ。」

って言って、私は断った。

 

だけどその数日後、何人かの女の子が私に声をかけてきたんです。

「去年のあの歌、コンクール出すんでしょ!?私も参加する事になったよ!」って。

話を聞いたら、先生が何人かの人に個別に声をかけてたみたいで。

10人くらいかな。集まったの。

1パート3、4人。

普段一つも仲良くなんかしてなかったのに、こうやって来てくれる人がいるんだ、って。

凄く嬉しかった。

 

ふう。

 

でね、結局そのコンクールでは、最優秀賞を獲ったんです。

トロフィー貰ってそれは学校に飾ってたっけな。

でも実家に盾があるから、それは私が貰ったのか。

でもそれよりも、自分が作ったものが評価されたことよりも、わざわざこうやって集まってくれて、私よりも喜んで飛び跳ねてくれたその人らの嬉しくしてる顔が、一番嬉しかったな。

 

で、その後。

「今年もやるわよ!」と。

また音楽の先生に言われたけど、でも今度は大丈夫だった。

「私の作った曲を、変な曲!って言った奴は、センスのないバカだ。」と思えてた。

なぜなら、凄い素敵な曲を作ってきてた他校の人たちを私は見た。

私が「すげぇなぁ」と感動したその音楽たちよりも評価してくれた審査員さん達が居たのが事実なわけで。

「変な曲!って言ったあの女は、ただの妬みだ。自分に出来ないから悔しくて言ってるだけだ。」

って、もう思えてた。

 

その年に作った曲も翌年のコンクールに出展し、再び、最優秀賞を獲りました。

前年と同じメンバーで参加したっけかな。

何人か増えてた気がする。

 

でも私は、それでもその人らを『友だち』だとは思ってはいなかったと思う。

個人的に遊んだりする事も、深い話をする仲でもなかったから。

 

でもどうだろう。

『仲間』とは思ってたかな。

コンクールの後、反省会?みたいな場で一言言わされた時

「心強い仲間がいてくれてよかった」って。

そう言ったのを覚えてる。

 

 

こっからはちょっと余談。

そうやって賞を取ったりすると人の態度が変わったんです。

あんまり意地悪な態度を取ってくる人が居なくなったというか。

そういう事を言いづらい雰囲気になるんですかね。

「良い曲だね!」だなんて。

手のひら返した態度を取ってくる人もいたし。

「おまえが去年どんな態度を取ってたかは、こっちは忘れてねぇからな。」

とは思いつつも、ありがとーとは言ってた気がするけど。

 

 

まぁそんなこんなで。

中学生の時も、色々な人の感情、心の動き、無名のものに拍がつくだけで手のひらを返しちゃうような人の心の弱さなど。

 

中学生ながら、色々な人の心に接する中で、私自身も色々な学びがあったなぁと思ってます。

 

なーんか今でもやってる事がそんなに変わんないなーって。

 

そう思う時が、私にはある。

 

 

 

 

 

私が、人からの妬みの感情をキャッチしやすい理由はこういった子どもの頃から続く経験から来ているものです。

それらを、気にし過ぎだとか自意識過剰だとか言う人がいるなら

 

お前も私と同じ経験をしてから言え。

 

そう思う時も、私にはある。

 

こっちはお陰様でなかなか拗らせてんだぞ、とね◎

 

 

人に妬まれる人生

小学生の頃から、人に妬まれる人生でした。

 

バレエを踊らされれば、表現力がある!と他の生徒の前で先生に褒められ、

ピアノを弾かされれば、上手!と言って他の子達の前でチヤホヤされ、

リレーの選手決めで走らされれば、誰よりも早く走れてしまい、

そろばん習わされれば、超特急で段まで到達し名前が常に貼りだされ。

 

でもどれも、私のやりたい事 ではなかった。

 

普段は絶対行かないこども文化センターの羽根つき大会に出で、毎日センターに通ってきてる子達を出し抜いて空気を読まずに優勝したことがあったな。

 

これは、私のやりたい事 だった。

 

泣いてたっけな、2位になっちゃった子。

センターのおばさんに抱締められて慰められてたな。

「頑張ったよ、頑張った。」

つって。

 

優勝した私は、何か貰ったんだっけかな。

大したものじゃないよ。

鉛筆一本とかじゃないかな。

「はい、おめでとうございます。」

心なく事務的に言われて渡されたような気がするな。

「そもそも、あなた誰かしら?」

そのおばさんの事務的な態度から、そんな風に言われたような気がしたのを凄く覚えてる。

 

私、別に鉛筆が欲しかったわけじゃないんだよね。

ただ、羽根つきがしたかっただけなのに。

学校で貰ったおたよりでそんなのを見つけて

「あ、羽根つきしたい。出よっと。」

そう思って、羽根つきしに行っただけなのに。

周りの子を蹴落としてやっつけてやろう!なんて意地悪な気持ちで参加したわけじゃないのに。

純粋に『楽しい!』ってやってたら優勝しちゃっただけなのに。

 

最後、なんだか私が悪者みたいだな、って思ったのを凄く覚えてる。

 

 

 

羽根つきは自分がやりたくて参加した事だったけど、その他のものは全部、別に自分でやりたくてやってた事じゃないんだよね。

だから、端から頑張るつもりもなければ努力をした事もないし、なんなら褒められてもあまりピンと来ないというか。

まぁ、褒められたりチヤホヤされれば悪い気はしなかったけれど。

 

私が何かをする度に、純粋な気持ちの温度で「すごいね!」って笑顔で言ってくれるクラスメイト、

私が何かで表彰された時、自分の事の様に喜んでくれるクラスメイトがいて。

なんでこの人は自分の事じゃないのにこんな風に喜んでいるんだろう?と。

その子の気持ちは一つもわからなかったけれど、一緒にいるとなんだか安心する様な気がするからよく一緒にいたっけな。

 

そういう子が居てくれた一方、

「調子に乗んなよ」

と、あちこちから言われたこともあったな。

まぁ、女子だよね。

 

休み時間は毎日、男子10人に女2人で混じってドッジボールやらサッカーやらどろけいしてて、それだけでもなんか文句言われた事あるな。

「なんでうちらと遊ばないで男とばっか遊んでんの?」って。

男とばっか?w

まぁ言われてみれば確かにそうだな。

確かに男ばっかで女子少ないな。

え、でもそういえばなんでだ?

あぁ、女子は教室で噂話と好きな人の話ばっかして外出てこないからか。

あぁ、しかもなんならこの子は、その中の誰かの事が好きなのか。

そう思ったから

「私はサッカーがしたいからしてるだけだよ。○○ちゃんも一緒にサッカーすればいいじゃん」

て言ったら、なんか更に怒ってたっけ。

 

今考えても、その読みは当ってたと思うんだけどな。

まぁいいや。

 

 

5年生の時なんか、なんか知らないけど年がら年中教室に6年生来てたけど、あれは異常だよ。

呼び出しだよ?

小学生だっつうのに。

 

一番覚えてるのはあれです。

8:15くらいじゃなかったっけ。

朝から廊下に呼び出されて、息の吹きかかる距離まで顔近づけられて、なんか文句言われたな。

私は何も悪い事してないんだよ?そもそも。

6年生のちょっとモテてる男子ってのがなんか私の名前を出したとかなんかで目付けられたんだよね。

どうせ私が女のくせにサッカーが上手だから私の名前を出したんだと思うよ。

そもそも私、その男子とまともに話したことないし。

なのになんかツラツラ文句言われたっけ。

しかも朝から。

でもね、文句を言われるよりも不快だったのが、

その人が言葉を発するたびに漂う納豆のフレーバー。

私、納得食べれないんですよ。

においがどうしても無理で。

「うわっ!納豆じゃん!」

て気づいた瞬間からずっと息止めるのに必死すぎて、話の内容が入ってこなかったんですよ。

 

最後、

「わかった!?」

とかめっちゃキレながら言われたけど、めっちゃ何もわかってないのに、ウン!ウン!ウン!って頷いたのは、早く帰ってほしいからであって、本当はそもそも何言われてるかなんて一つもわかってない。

でも多分『すげー反省して私の言う事きいてくれた!満足、満足!』と思ったに違いないな。

その人、次の日から私の教室来なくなったしね。

 

まー、よーわからんよね。

 

 

 

話長ぇな(笑)

まだまだあるんだけど、どうしよっかな(笑)

まぁいいか。

 

と、まぁ

私は、自分の好きな事を好きなようにすると

誰かしらがどこかで必ず怒ったり不快になる

なんなら何もしなくても普通に生きてるだけで

誰かしらがどこかで必ず怒ったり不快になる

 

小学生の時からずっと思っていた事です。

 

月のお勉強

月は、私たちの

無意識や感受性、感応性、情緒的 な面を表す。

私たちのあらゆる過去の経験や望み、恐れ、傾向、期待 というものが

この『月』によって表されるのですね。

 

月は、私たちの”魂”の記憶の管理者。

またその記憶には、今世における私たちの過去の経験だけでなく、過去生からの記憶と経験も同じように含まれるそうです。

私は過去生の記憶を認識していないけれど、

”私の中にある月の中にはそれがあり、そして知らない間に過去生にアクセスしている時がある” という考え方は、なんともロマンがあって素敵だと思います。

 

私たちは意識することなく太陽を経験し表現することはないけれど、

その一方で、月を通して人生の大部分を過ごしている。

 

私たちは通常、自分の人生に気を留めることもなく時間の中を通過してます。

その中で経験は 過去 として記憶、蓄積され「現在の出来事の意味を理解するために」それらは参照されているわけですね。

 

月のおかげで、私たちはパターンを記憶し、習慣が作られ、人生の一部は自動的に過ぎゆくままにさせていくことができる。

 

良い例えがありました。

”月なしに車の運転をするとしたら、その度にどこにどのように運転するのかを学ばなければならなくなる!”

 

過去として記憶、蓄積されたものがあるからこそ、今日も当たり前のように運転をすることができるということですね。

無意識にできることというのは、月から来ているもの。

 

月がよく「素の自分を表す」と表現されるのは

人生の大部分である無意識からの言動を表すからなのですね。

 

”非常に身近であなたのことをよく知っている人は、太陽ではなく月を通してあなたを理解しているだろう。”

 

それはつまり、意識しない言動に触れる機会が多いから、ということですね。

 

 

『月は太陽の表現に対して形と構造を与える』

 

 

”出生チャートの中での太陽と月の間の関係は非常に重要”

 

意識や理性、論理的な能力を表す太陽

無意識、情動、霊的な本質を表す月

 

太陽と月の調和的な関係は、私たちの欲求を表現することを容易にし、

また、共同体に属することや他者から心の支えを求めることと共に、

自分の独自性を統合することも可能にする。

 

これは料理だ。

 

”太陽と月の間の関係を積極的に受け止めていくことは、意識的自己と無意識的自己を調和させるという生涯にわたる重要な葛藤に取り組んでいくことになる。

だが、それは本当の自己の深い理解と新しい発見へと私たちを導くことにもなるだろう。”

 

 

強烈に考えさせられ過ぎて、なんだか頭痛がしてくる。

 

そして、太陽星座と月星座をコンビネーションで読んで、どう混ぜ合わせるか。

深い理解と新しい発見に繋がる道の入り口を探す。

やはり頭痛がしてくる…w

 

でもね。

この頭痛も一生ではないはず。

 

でもちょっとここで思ったのは、

勿論どっちが大事とかではないんだろうけれど、

月星座の性質というのをなんだか大事にしてあげたいな、って。

蔑ろにしてはいけないよな、って。

 

月の勉強をしてみたら、そう思いました。

太陽星座のお勉強

「あ、こいつ勉強やめたな?w」

 

わりかし

”人にどう思われてもいいや”と諦めて生きてる私でも

流石にこれは恥ずかしい。

 

なので、挫折を重ねるに重ねてきた占星術の勉強を

他人様の目に触れる機会のある場所、つまりブログを使ってやっていこうと思います。

(勿論、全部ではないですが)

 

 

余談は省いて早速本題。

サッサとやります。

 

今日は、太陽星座

私たちが『いかにして英雄になることを求めているか』を表す。

別に、英雄になりたいかどうかは別です。苦笑

実現したい理想の生き方』とか

人生における自分のメインコア

生涯変わることのない強力なエネルギーを発する

社会の中で目指したいゴールや潜在意識のフォーカスポイント。

このように表現されていたりもしますね。

 

要は、個としての自分を、外側に表現していこうとする時の「力(エネルギー)」でしょうか。

 

太陽(のエネルギーのようなもの?)が

私たちの『真の自己と個性』を創造し、

私たちが行動を起こすための『意志』を発動させてくれるんですか?

へぇ。それはありがたい。

無意識に動く領域ではなく、

意志を持って行動したり表現したりする時の性質=本質 というところですかね。

 

何か、完全に新しい経験を目の前にした時、

それに対してどう立ち向かうか。

これまでの経験を通して対応できる時は、太陽ではなく月にアクセスしてる状態だそうです。

あくまでも、完全に新しい経験と直面する時に、出る性質。

これが、私たちそれぞれが持つ『太陽』ということなのですね。

(よくある星占いの自分の星座で言われる性格ってのがそれですよーってことですね)

 

『私たちが、どのようにしてスターになる事を求めるか』

 

別にスターになりたいとかなりたくないとかじゃなく、

「いや、私は地味に静かに生きていきたいので。」

と顕在的には思っている”としても”

この世に生まれてきた自分の魂ってやつが、

この世界で、自分の外側にいる自分ではない人たちに『自分』という存在を知ってもらうためには、

その魂ってやつが自分という『個』を表現するために、

そしてそれを受け入れて認めてもらうために、

この世に生まれた瞬間に与えられた『自分』にとって大切な性質^^

 

だから、たとえ

「要らない!!」

と拒否しても

それはムダな抵抗なんですね。

 

太陽は、”それではないもの”にならせようとするあらゆる企てに対し

『その本質(太陽的性格)を否定することが不可能になるまで抵抗する』と…

 

なんともおそろしい…

 

『その本質を否定することが不可能になるまで太陽は抵抗してくる』

つまり、抵抗すれば自分の中のバランスが崩れ、

生きていく上で様々な葛藤や苦悩が生じることになるわけですね。

 

自分の性格や性質を否定したくなるときはあります。

「素敵だな」と感じる憧れの人を見て

「私もあぁいう人になりたいっ!」と思ったこともたくさんあります。

 

でも、どんなに真似をしてみても、

なんだか全然その人と似た雰囲気にすらなれなかったのは、

生まれ持った本質が違うから。

内側から放たれるものが皆それぞれ違うから。

 

誰かになろうとしても自分は自分でしか在れない。

 

自分という個の本質やエネルギーを理解して受け入れる。

そして私たちそれぞれの

個の本質やエネルギーこそで

自分という個を磨き続け、そこから来るエネルギーで意志を持って行動する。

そして社会や自分の人生においての目指したいゴールに向かって歩いていく。

 

よくある星占いでの『自分の星座』ってやつは

そんな自分の一生のパートナーのようなものなのかな。

だとしたら、

二人三脚、歩調合せて

仲良くゴールを目指して行きたいですね◎

 

私は獅子座。

 

 

最後まで読んでくれてありがとうございました◎

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魚座(2/20~3/20)

2匹の魚をシンボルとする魚座は、半分この世ではないところとつながっている感じがあります。

ひとりの人間の中にふたつのペルソナがあり、それぞれ意識と無意識につながっている感覚。

そして、無意識や宇宙とつながっている方が、目に見えな色々なものをダウンロードしてくるのです。

魚座には清濁併せ呑む懐の深さがありますが、それは母性というよりも宇宙的な包容力。

また、海王星を守護星に持つ魚座は境界線をぼかす力を備え、共感力や協調性に優れているのも特徴的。

「気」と融合して波長や波動を伝えられるため、霊的なことや芸術方面で力を発揮します。

同調力の高さは、癒し系のセラピストやメッセンジャー、アーティストとしても活躍できますが、同調する対象を間違えると身を滅ぼすことに。

また、相手から重荷と思われ拒否されてしまう場合もあるので、常に自分を俯瞰して見る習慣をつけるといいでしょう。

社会的なルールや常識には縛られないため、職業年齢不詳といった不思議な空気感の人も。

さらに、世の中の意識レベルを上げたり、覚醒を促す役割を担います。

yujiの星読み語り より

水瓶座(1/21~2/19)

守護星は、革命の星・天王星

水瓶座は天才輩出率が最も高い星座ですが、周囲から理解されにくい宿命が。

時代を先取りしてしまうがゆえに、どうしても周りから浮いてしまうのです。

車で例えるなら、最先端の動力系を持つ自動車Aが、昔ながらの自動車Bに「早くAになればいいのに」と言っても、旧時代の方法に縛られたBにはなかなか通じないようなもの。

さらに、素晴らしいアイテアも、権力者から弾かれてしまうと発揮しようがありません拗ねた水瓶座は、ヤケになってしまうことも。

天才力の生かし方が肝心です。

思えば、モーツァルトエジソンも、父や母が認めてくれたからこそ大成できたという面も。

水瓶座の発想は常軌を逸するほど革新的なため、わかりやすく咀嚼して表現するか、社会との橋渡しをしてくれる理解者を得ることが不可欠です。

インターネットとの相性がいいので、インフルエンサーとなるケースも多いでしょう。

常に既成概念を疑う姿勢があるので気難しい人と思われがちですが、それは革新を起こそうというマインドの表れと言えます。

yujiの星読み語り より