多数派(正常)、少数派(異常)について。

人間は ”自分と違う人”を受け容れられなかったり、
”皆と違った特性を持つ人”を排除したがる特性があるそうです。

これは人間としては本能的な事のようで、”自分たちと違った人が、自分たちを脅かす”という認識が反射的に起こる事が原因らしい。



世の中で言うと、多数派の人たちが「正常」とされて少数派の人たちが「異常」とされています。

例えて言うなら、皆と違った特性や珍しい性質を持っている人が「変わっている」だとか「異常だ」と言われたり。

多数派を「正常」とし、少数派を「異常」としてしまう世の中の風潮は、限りなく当然に寄った仕方のない事だと思います。
けれど私は、この概念で物差しを振り回したり、何かをジャッジしている人を見て、随分くだらない感性をひけらかしているものだなと、最近ではすっかり同情にも似た感情を抱きながら黙って静かに眺めているものです。



私は「イカレ」と言われる事があります。

人からはよく「変わっている」と言われる事があるわけですが、距離を置くような温度で「変わっている」と言われるよりも、愛のこもった「イカレ」という呼ばれ方の方が断然私は気に入っています。
(何事も愛の温度が大事。)

そんな私ですが、”私が変わってる”のではなく ”どいつもこいつも皆それぞれ変わってる”というのが私の見解です。



イカレ」という表現を使って言うならば、「社会に順応できない、人とうまくやれない私」がイカレなのではなく、「社会に順応できてしまう、人とうまくやれてしまう人たち」の方が、よっぽど・むしろ・断然「イカレ」だと思うわけです。

いや、順応するという選択について、本人が「なぜ順応するか」の説明ができるならいいと思うのですよ。
でも大概の場合「なぜそうしなければならないのか」と問えば、「常識だから」だとか「みんなそうしてるから」だとか。
そういった”何かのせいにする”ばっかりで、自分の考えとしてきちんと説明できる人がどれだけ居るのだろうか、と思うわけです。
(逆に「社会に順応できない派」の人の方が、よっぽど自分の考えや意見を喋れるのではないでしょうか?)

誰が作ったのかもどういう理由で作られたのかもわからない、提示されたルールに対して自分の頭で考える事もなければ何も疑う事なくそのレールに「あいよっ!」と言って乗れてしまう。
そんな事ができる方が、私からすればよっぽど「イカレ」だと思うわけです。


残念ながら、多数派を「正常」とし、少数派を「異常」とする考え方は、いつの時代も簡単に”中身”を変えます。

「どんな事があっても人を殺めてはいけない」という多数派が「正常」で居れるのは、この時代のこの日本に生きる人が言える事であり、ほんの少し時代が変われば、人を殺める事こそが任務であり正義(正常)とされる時代もあったわけです。
(戦国時代とかもう大変。)

少し話を大きくしすぎてしまったけれど、そういう理由から、多数派を「正常」とし、少数派を「異常」とする考え方でいると、いつでもその中身を、いくらでも簡単に入れ替えられてしまうからこそ、物事は、多数派の「正常」か少数派の「異常」で判断するのではなく、その物事自体に対して「自分がどう思うのか」を一番大切にするべきだと私は思うのです。


日ごろから自分の頭で物事をしっかり考える人であれば、その中身を簡単に入れ替えられてしまうタイミングで異変に気づくと思います。
「昨日まで普通(正常)だと思っていた事が、突然今日からに異常とされてしまうなんて!」と。

でももっと恐ろしいのは、これまた何の疑問も持たずに「そうなんですね」と受け容れてしまう人たちがそれこそ『”多数”いる!』という事。
「政府のお偉いさんが決めた事だから仕方ないわね」とか
「テレビがそう言ってたんだから仕方がないわね」とか。

そして私が思うに、『多数派を「正常」とし、少数派を「異常」とする』という、この多数派の割合いのほとんどを支えているのが、そういった「特に自分の意見を持たず、何も考えない人たち」なのではないか、という事。



あなたは、何か物事や出来事に直面した時、自分の心で「イヤだな」と感じたり、「それは違うと思う」と考えたりするでしょうか?



もし仮に、その気持ちや思考、自分の特性が ”少数派” だったとしても、多数派の人たちに裁かれる筋合いも無ければ、怯える必要もないと私は思うのです。



私は個人的に、自分も含めて「異常」と言われる”少数派”の人たちの方が、多数派の人たちよりもよっぽど自分の人生を大切にして向き合っていると思うから、器用にやれない部分も全部含めて、そういった「異常」と言われる少数派の人たちの事を平たく言うと、愛してます。