それぞれの、心のフィルター

一つ屋根の下に暮らす夫婦といえど
同じ現実を見ているわけではないのかもしれませんね

人間は相手の心を想像し
共感できる生き物として言われてます

しかし人は
自分のフィルターを通してしか
世界を覗く事は出来ません

それは果たして本当に相手の心がわかっていると言えるのでしょうか

まして
相手が自分と全く異なる存在だったら



これは先日放送されていた『世にも奇妙な物語2022夏の特別編』での、タモリさんの語りの一文です。

私は最近、これと同じ様な事をずっと考えていたので、この言葉を聞いた時に、ものすごい感銘を受けました。



今の私は、何事も「自分がどう感じたか」を基準に、
『何を信じるか』
『何を選択するか』を自分で決めています。

世の中がどれだけ「これが正しいのです!!」と主張してきたとしても、
「それがどうして正しいと言えるのか」を自分なりに調べて、自分なりに考えて。
自分の心が「そうだね、それが正しいっぽいね!」と思えるまでは、むやみに鵜呑みにしたりはしません。
勿論、関心のない事には「どっちでもいい」と思ってしまうので、そこまでのエネルギーは使いませんが。

例えば政治的な事であったり、身体に関わる事であったり、
何かを選択しなければならない時は、誰かの話をそのまま鵜呑みにするのではなく、
「どうしてそれが正しいと言えるのか」
「逆だとどうなるのか」などを調べて、自分でよく考えて、最後は自分の心がどう感じたか。
(参考にした情報すら、それが本当かどうかは「その事実を生み出した本人でなきゃわからない」「むしろその生み出した本人ですら事実の全てを知ってるとも限らない」と思っているので、最後の判断は自分の心に任せているのです。)
そうやって『自分の心』で判断や決断をしています。

もしかしたらその判断や決断が、ある人からすれば「間違っている」時もあると思います。

でも『自分の心』で判断、決断した事は、私にとってはいつだって間違ってはいないのです。
なぜなら『私の心』は私だけのモノであって、その『私の心』に責任を持ち、大切にする事こそが、『私にとって』は一番正しい事だからです。

「そう感じた」時にその判断をしても、その後に改めて考える機会があった時に、新しく何かに気付いて「こう感じた」なら、「こう感じた」時の自分の心に従って答えを改める事も勿論あります。
それは「そう感じた」時の判断が間違っていたのではなく、「こう感じる」為の気付きが足りなかっただけなので、
『その時の私』にとっては、その時の判断が私の中ではベストだったのです。
なので「間違っていた」のではなく、ただ、アップデートされる感じです。



私はよく『人との考え方の違い』について、缶ビール等の円柱の物に例えて物事を考えます。

私は今、この缶の商品名のロゴが大きく見えているけど、
向かい合う相手からすると小さく描かれた成分表示ばかりが見えている状態。

デッサンとかもそうですよね。
一人のモデルを囲んで幾人かでデッサンすると、それぞれ描く角度が違います。
そのモデルさんの左頬にホクロがある事に気付ける角度の人が居れば、それに全く気づけない角度の人もいる。

この様に、物質として同じ1つのモノを見ていても、見る角度によって、見えるモノが全然違う。

これは物質だけの話ではなくて、形を持たないモノに於いても同じだと思うのです。



政治だったり宗教だったり、健康についてだったり趣味についてもそう。

同じ一つの事柄に於いても、見る角度によって「見え方」は人それぞれ。
それに加えて「感じ方」も更に人それぞれ。



なのに人は、『自分が見えたモノ』その角度から見たモノ「のみ」が正しいと思ってしまって、自分の考えや意見「のみ」が正しいと思い込んでしまう事が多々あると思います。
『自分とは違う角度から見た人』に対して「それは間違っている!」「わかってない!」などと批判したり、争う事をしてしまう。
昔の私がそうでした。

昔の私は『私の考え!!』が常に正しいと思い込み、
それを人に押し付けて、人とぶつかり合い、逃げる人を追いかけ、
相手がへし折れるまで自分のエゴを押し付けても理解させる事が正義だ!と思っていた時期がありました。
だから、こんな話を全く偉そうに言えるわけもないので、私としては全く偉そうに言っているつもりはないのですが、でももし、偉そうに感じてしまった方がいらっしゃったら、それはごめんなさい。

でも、そういう過去の酷い自分が在った事を誰よりも一番よく知っている私は、
「人って変われるんだな」とつくづく実感しています。
私が、たくさんの事を学んで少しづつ成長していく中で、たくさんの迷惑や傷をつけてしまった人たちがいるのも事実です。
この先、その人たちにどこかで再会する事があるのかないのかわからないけど、
もし再会する事があって聞き入れてもらえるならば「あの時は私のエゴを押し付けてごめんなさい」という気持ちを伝えたいし、そんな酷い私の事をも、当時出来る限り受け止めようとしてくれた人たちの「今」の幸せを、私は心から願っています。
(私がしてもらった事、学ばせてもらったモノはとても大きいモノだと思っているから)



『自分が見えたモノを信じる自分の気持ち』を大切にする事はとても良い事だと思うけれど、
それを武器にして人に振りかざしてしまうのは残念な事だと今は思います。
『”自分が見えたモノを信じる自分の気持ち”を大切にする事』は、自分とは考え方の違う誰に於いても、大切にしてほしいな、と今の私は思うからです。

お互いの大切な気持ちを武器にして争い合うのではなく、
「私はこう思うけど、あなたはそう思うのね」と、お互いの『大切な気持ち』を嫌味ではなく純粋に尊重し合って、その気持ちをベースに話し合ったり、時には距離を取り合う事が出来たら、人との争いって減るんじゃないかな・・・
日常の中での小競り合いが減って、喧嘩が減って、争いが減ったら、、、
世界って変える事が出来るんじゃないかな・・・!

などと、思春期に思った「世界を変えたい!!」に似た感情がひょっこり見え隠れするけど、今の私は、そうは思っても取り敢えず「自分の周りのほんの小さな世界を変えるのだけで精一杯だ!」と思って、私なりの素敵な日常を送っています。



なので私は、
『誰かと同じ考え方や同じ気持ちで居る』って事は、
当たり前じゃないどころか『奇跡』に近いモノなんじゃないか!?と思うわけです。

心というモノはこの世界の中で一番形を持たないモノだと私は思っているので、その心が誰かと「完全に一致」する事は、ほぼ皆無だと思っています。

でも似た輪郭を持つ同士というのは、たくさんあると思います。

似たような心持ち同士で何かを共有し合えるのは、楽しいし嬉しいし素敵な事です。

でも、忘れてはいけないのは、それが完全一致ではない事です。

完全一致ではないのだから、ある部分に関しては共感し合えても、ある部分に関しては共感し合えなくて当然なのです。

そういう小さな違いを「そこはそういう感じなのね」で受け入れる事が出来たら、摩擦し合う事がなくなるんだろうな、って。



どうしても『自分をわかってくれる人』を見つけると、その人に対して期待の心を持ちがちですが、『理解してもらえる部分』もあれば『理解できない部分』があって当然なのかな、と。



心は形を持たない、いつだって変化や変容をしてしまう、雲みたいなモノだと私は思ってます。
その自分だけの大切なモノは、雲みたいに形を持たないから、他人と完全一致する事は無いと思うのです。

それぞれの心のフィルターで見る世界や物事は、それぞれの見え方、感じ方があって当然な事だと思うのです。

同じ映画を見て、言葉や表面的な部分で共感し合えたとしても、その言葉の奥にある心の温度はそれぞれ違う。
人から悲しい出来事を聞いて、感情移入して共感する事があったとしても、
その人の悲しさの温度は、その本人にしかわからない。

心は、個人それぞれの『形を持たないモノ』であって、どれだけの言葉、どれだけの想いで表現しようと、具現化する事、確実に人に伝える事 は出来ないのです。



だから『人と人とが、わかり合えない』のが本来の前提なのかな、って。

だからこそ、
少しでも共感し合えたり、少しでも気持ちを共有しあえる事、
心の一部分を共有し合えて、極々小さな心の一部分の繋がりが生まれる事。
私はそれをとても嬉しく思うし、そんな『小さな奇跡』を大切にしたいと思うのです。

「誰の心も完全にはわかってあげられない」からこそ、
いつも相手の気持ちを大切にしたいと思っています。

「いつも相手の気持ちを大切にしたいと思っている」からこそ、
まずは、自分の気持ちを一番大切にしています。





だけど今の私も全然完全な人間じゃないから、これからも相手の気持ちがわからずに、知らぬ間に不快な思いをさせてしまう事もまだまだあると思います。。
最近、特に気になるのが『相手の踏み入れられたくない領域を、知らぬ間に踏み荒らしてしまっている事』・・・苦笑

でも「いやだ」と教えてもらえれば、学習して次から同じ事はしないし、その時に相手の気持ちに気付いて学んで「ごめんなさい」と思った時は本心です。

でも、ネットだと「相手の気持ちを察する」にしても、私には情報が足りな過ぎて、知らぬ間に相手に不快な思いをさせてしまってる事もあると思います・・・
そのせいで、世の中で言う「失敗」をしてしまう事もたくさんあるけど、『その時の私には、そうする術しか持っていなかった』・・・ご迷惑をおかけして申し訳ない・・・と思いながら、これから先も、結局たくさんの人に迷惑をかけながら生きていくのだと思います。

そう思えるようになってから、逆の立場になった場合にも、昔よりもかなり寛容になれてきたと感じています。



インターネットの海を、社会という私の日常の海を、
「自分自身」という裸で泳いで、迷惑をかけながらかけられながら、傷つきながらたくさんの事を学び、
これからも『人の心』『自分の心』を大切にして、泳ぎ続けていこうと思います。